自分だけはいつまでも若い若いと思っていたが、
いつのまにやらアラフォーと呼ばれる年齢に到達していた。
実年齢よりは若く見られるはずとタカを括っているフシもあるが、
同年代の劣化した容姿を目の当たりにしては我を振り返る日々。

若さへの執着、未練。
老いていくことへの恐怖、悲観。
野球界のスーパースター、
イチロー選手が先日の移籍会見でこんな話をしていた。
「25歳でも45歳に見える人はたくさんいる。
その反対であることができるように少しずつ前に進みたいと思っている」
それが僕にとっては、すごく奮い立たせられる言葉であった。
自分の中に巣食ってやまない、年齢に対する前提
こんな風に考えるということは、
自分の中に「若さは善、若いことはすばらしい」という前提があるのだろう。
そしてその前提は世の中を見渡してみても痛感させられてしまう。
たとえばテレビドラマの主人公は、ほとんどが20代である。
つまりは人生の彩り豊かな時期というのは、
間違いなく20代という訳であるが、そのことを否定できる人も少ないのではないか。
実際、僕だって自分の行動エリアに50代以上の方が混ざっていると、
不謹慎ながら「何でこんなところにいるんだろうか?
年甲斐もなく分不相応じゃないかな」と感じてしまうのは事実だ。
つまり30歳という“大台”に差し掛かれば
そろそろ幕引きの用意がなされ、
そしてついにアラフォーと呼ばれる歳の頃には、
もはや世間の表舞台には相応しくなく、
“引退”の二文字を勧告される頃合いなのだ。
あたかもプロ野球選手のように。
それを望もうが、望まないが、
40代以降の人は、ひっそりと質素に地味に過ごせと世間から告げられているかのようだ。
さて、アダルトビデオにも「熟女もの」というジャンルがあり、
これは大体27歳~40歳代の女性が登場する作品を指す。
このジャンルでもなかなかどうして、
近年ヒット作が多発しているらしいが、僕はどうもまったく興味をそそられない。
街を歩く女性も、やはり20代にしか目を奪われないし。
“年齢感”に対するパラダイムシフトの期待
「年齢なんてただの数字」と達観している人もいるが、
僕にはなかなかその域に達せそうもない。

ジムワークをルーティンとし、
せめて見た目だけでも若く維持していたいと努力する日々。
ただ、若い頃よりも負荷に対する数値も上がっているし、
慣れや利口になっているせいもあるが、運動能力は上昇していく一方だ。
自分はまだまだ若いんだぞ、と自己暗示と錯覚を促す。
客観的に見れば、
至る部分で若さにしがみついている滑稽さったらありゃしない。
無駄なあがきを頑張ってしているが、
心が折れそうになる。
身体と心の甘えに抵抗する毎日。
確実に、着実に、
年輪を増やしている実感から、そっと目を伏せる。
いつの日かもしかしたら、
「若さは善、若いことはすばらしい」という価値観が
自分の中で変化してくれることを期待している。
それが自分の心に舞い降りてくるときこそ、
やっと理想的な歳のとり方ができたと、言えるときなのだろう。