大阪都構想に触れて、改めて考えた「議論する技術」


先日、いわゆる「大阪都構想」についての住民投票が行われた。
このニュースで世間が賑わっていたことが、記憶に新しい。

全国ネットのニュースでもバンバン取り上げられていたから、
大阪以外の方でもほとんどの人が、
この投票の存在は知っているのではないか。

都構想画像

僕自身、現在は東京に居を構える身ではあるが、
18歳まで大阪で過ごした。
生まれも育ちも大阪である。
そんなこともあってか、この「大阪都構想」の行方が気になって仕方がなかった。

住民投票の結果は「否」となった。
それを受けて橋下市長は引退宣言を発動する。
これで「都構想」、もしくはこれに準ずる大改革は
しばらく鳴りを潜めることになるだろう。

そもそも、もはや東京都民の僕は、
賛成、反対、どちらの政策も
批判するつもりも賛同するつもりも毛頭ない。

ただ、今回の投票までの有様について、一言モノ申したい。

僕はこの「都構想」なるものを深く理解したかったので、
最後の最後まで、中立の立場から客観視するべく情報を集めたかった。
都構想とは、そもそも何なのか?
大阪市の暮らしぶりが、これまでとどう変わるのか?
メリット、デメリットは?

ところが情報収集を進めていくうちに、
段々とどういう訳か情報が集まらなくなってきた。

情報自体にバイアスがかかっていて、
それぞれの陣営で取捨択一されたものしか入手できないのだ。


「相手陣営の言っていることは間違っている」と言いながら、
何がどう違って自分たちが正しいかを明確に表明しない。

挙句、それぞれの立場を表明している人たちを個人攻撃する。
こんな人が言っていることが信じられるか?
この意見を主張している人は、
過去こんな事をしているイカサマな輩だよ・・・、などといった具合に。

そして最後には政策の情報を全く出さず
とにかく賛成、とにかく反対の極端な論戦を張る。
今の大阪を変えたいなら賛成を━。
都構想が何かわからなければ反対を━。

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心地よい賛同意見ばかりでは、残念な結果しか導かない

さて、ここで落ち着いて考えてみてほしい。
今回の住民投票は、政党支持選挙ではなく、
ましてや不信任投票でもないのだ。
論点はただ一つ、都構想。

それなのに論点をすり替え、
中傷合戦を繰り広げることに終始する。
これでは、情報に触れているだけでホトホト疲れ果ててしまう。

今回の住民選挙にまつわる両陣営との論争から考えたのだが、
日本人というのは、何て議論が下手な民族だろうかと。
学校や会社の会議でもそうではないか?
話が脱線するし、感情的になってしまうし・・・

それぞれが主張する論点のシャープさを、
表明する技術を持ち合わせていなければ、
他人の主張の論点を聞いて理解する技術にも乏しい。

議論の技術

だから全然あさっての方向へ話が行ってしまいがちだし、
議論そのものとは全然違うこと(たとえば、個人的な資質とか)が論点として
すり変えられてしまう。

では、僕の経験上に置き換えて考えたい。
議論の場で特に感じるのが、否定意見に対する脆さである。
自分の主張とは違う否定意見を受け入れる度量が極端に足りないし、
違う角度からの指摘による新しいパラダイムの提示を感謝できない。

否定的見解というのは、時に「ぬり絵のふちどり」の役目を果たす。
ここまでが絵の範囲ですよ、だからこの範囲内でいろんな色を塗りつぶしていくと
上手に絵が完成できますよ、といったガイドライン的な役割が往々にしてある。
しかし、その意義にすら考えに及ばない人がほとんどである。

賛成意見ばかりの議論の場だったら、
それはまるで幼児がクレヨンで書きなぐった
下手くそなぬり絵のような結論にしかたどり着けないのがオチだ。
それは大の大人が手掛けるぬり絵(=仕事)の完成形ではないはず。

自己成長のためには、いかに反対意見と向き合い、付き合っていくか―――。
その技術がとても重要であることを、今回の大阪都構想によって
改めて思い知らされた次第である。

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